2007.11.12 Monday
学問のすすめ「三編」
個人的に、この「三編」はかなりシビれます。
江戸時代から脈々と通じる、日本人の無気力さを痛烈に批判して
いる。これって行政を「サービス」だと決め付け、税金の支払い
がサービスを受ける代金だと思っていた自分にグサリと来ました。
明治の書物なのに、現代にも思いっきり通じています。
「責任」ってなんなのか? 大国にへつらうことが「平和」だと
心のどこかで決め付け、日本をはじめ世界レベルで発展途上の国
に対しておこなっている痛すぎる行為が隠蔽されがちな現在。
日本人であることを自覚することはもちろん、発展途上の国にい
るような目線も持って、戦争ってなんなのか? ボランティアっ
てなんなのか? そんなことを考えながら読んでください。
江戸時代から脈々と通じる、日本人の無気力さを痛烈に批判して
いる。これって行政を「サービス」だと決め付け、税金の支払い
がサービスを受ける代金だと思っていた自分にグサリと来ました。
明治の書物なのに、現代にも思いっきり通じています。
「責任」ってなんなのか? 大国にへつらうことが「平和」だと
心のどこかで決め付け、日本をはじめ世界レベルで発展途上の国
に対しておこなっている痛すぎる行為が隠蔽されがちな現在。
日本人であることを自覚することはもちろん、発展途上の国にい
るような目線も持って、戦争ってなんなのか? ボランティアっ
てなんなのか? そんなことを考えながら読んでください。
国は同等である事
「人」と呼ばれる限りは、金持ちも貧乏も、強い人も弱い人も、人民も政府も、その権利は変わらないという事は第二編に書いた。今この意味を広めて国と国との関係を語ろう。国とは人の集ったもので、日本は日本人の集ったものであり、イギリスはイギリス人の集ったものである。
日本人もイギリス人も等しく天地の間の人だから、お互いにその権利を妨げる理由はない。一人が一人に向かって危害を加える理由がないなら、二人が二人に向かって危害を加える理由もないだろう。百万人も千万人も同様で、物事の道理は人数の多少によって変わってはならない。
今、世界中を見渡すと、文明開化と言って文学も軍備も盛んで富強な国もあり、発展途上で文武ともに行き届かず貧弱な国もある。一般にヨーロッパ、アメリカの諸国は富んで強く、アジア、アフリカの諸国は貧しくて弱い。しかしこの貧富と強弱は国の有様だから、もとから同じである訳がない。だから今、自国の富強な勢いで貧弱な国へ無茶な要求をするのは、いわゆる力士が腕力にまかせて病人の腕を握り折るのと同じで、国の権利において許してはならない事である。
最近の日本も西洋諸国の富強に及ばないところがあるが、一国の権利においては毛ほどの違いもない。道理を無視して曲がったことを強いられることがあれば、世界中を敵に回しても恐れるに足りない。初編でも言った通り、日本中の国民が一人残らず命を棄てて国の誇りを守るというのはこの場合である。
それだけでなく貧富や強弱の様子は宿命ではなく、日々の勉強と不勉強とによって移り変わるべきもので、今日の愚か者も明日は知恵者となるように、過去の富強も現在の貧弱となり得る。昔からその例は少なくない。私たち日本も今から学問に励み、気力をみなぎらせてまずは一身を独立させ、その後に一国の富強を成し遂げれば、西洋人の力なんて恐れることはない。道理を持つものとは交わり、道理を持たないものは打ち払うだけだ。一身を独立して一国も独立するというのはこの事である。
一身を独立して一国も独立する事
先に述べた通り、国と国とは同等だが、国民に独立の気力がないときは国も独立の権利が得られない。その理由は3つある。
第一条 独立の気力がない人は、国への思いが深くない。
独立とは自分で自分の身を支配し、他に依存する心がない事を言う。自ら物事の良し悪しを判別して行動を間違えない人は、他人の知恵に依存しない独立である。自らの心身を働かせて個人の生計を立てる人は、他人のお金に依存しない独立である。人々がこの独立の心を持たずただ他人の力に頼ろうとだけすれば、全国の人はみんな依存する人だけなので、これを引き受ける人はいないだろう。これはたとえば盲目の人々の行列に誘導する人がいないのと一緒で、かなり不都合である。
ある人がこう言っている。民衆は服従させるものだから真実を知らせてはならない、世の中は無能な人が千人で有能な人が千人であれば、有能な人が上に立って諸民を支配し自分たちに服従させて良いと。この説は孔子の流儀だが、実際は大いに間違っている。一国に人を支配するほどの才徳を備えた人は千人の中で一人に過ぎない。
仮に人口百万人の国があるとして、この内の千人は有能で九十九万あまりの人は無能の人々だとしよう。有能な人の才能と人徳でこの人々を支配し、あるときは我が子のように愛し、あるときは羊のように養い、あるときは脅しあるときはなでて、飴も鞭も使い分けてその方向性を示すことがあれば、人々は知らず知らずのうちに上の命令に従い、盗賊や殺人の事件もなく、国は平和に治まることがあるかもしれないが、もとからこの国の人々は主人と客の2つに分かれ、主人は千人の有能な人たちで都合の良いように国を支配し、その他の人々はみんな何も知らない客である。
客という身であればもとから心配も少なく、ただ主人にだけ依りすがっていれば責任がないから、国を思う事も主人のようにならないのは当然で、本当に水くさい有様である。国内の事ならこれで良いかもしれないが、外国と戦争が起こった場合の不都合さを考えてみなさい。無知で無力の人々は、武器を構えることはあっても、自分たちは客だから命を棄てるのはやり過ぎだと言って逃げる人が多いだろう。こうなるとこの国の人口は、見た目は百万人だが、国を守る段階になるとその人数はとにかく少なく、とても一国の独立は叶い難いだろう。
こういった訳で、外国から自分の国を守るには、自由独立の気風を全国に充満させて、国中の人々は身分上下の差別なく、その国を自分の責任として引き受け、有能者も無能者も目の見えない人も目の見える人も、それぞれその国に存在する人間としての役割を果たすべきだ。イギリス人はイギリスをもって自分の母国と思い、日本人は日本をもって自分の母国と思い、その母国の土地は他人の土地ではなく自分たちの土地だから、母国への思いは我が家への思いと同じにし、国のためには財産を失うだけでなく、命をも投げ出して惜しむ事はない。これが母国の恩に報いる道義である。
もとから国の政治をおこなうのは政府で、その支配を受けるのが国民だが、これはただ便利のためにお互いの持ち場を分けただけである。国全体の誇りにかかわることであれば、国民の役割として政府だけに国を預け、傍らからこれを見物する訳にはいかないだろう。日本の誰、イギリスの誰と、名前の肩書きに国の名前があれば、その国で衣食住を自由にできる権利がある。既にその権利があるのだから、その役割を国民が持たないはずがない。
戦国時代、駿河の今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとしたとき、信長の策で桶狭間に伏兵を設置し今川の本陣に迫って義元の首を取ると、駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすように戦いもしないで逃げ走り、当時名高かった駿河の今川政府も一瞬で亡びて跡形もなくなった。3年ほど前、フランスとプロイセン(現ドイツ)との戦争で、両国が接近戦を展開した当初、フランス皇帝ナポレオンはプロイセンに生け捕られたが、フランス人はこれで望みを失わなかっただけでなく、さらに憤発して防ぎ戦い、骨をさらし血を流し、数ヶ月籠城した後で和睦に及んだが、フランスは依然として元のフランスと変わらなかった。
あの今川のてん末に比べれば同じ事としては語れない。その理由は何だろうか。駿河の人民はただ義元一人に頼りっぱなしで、その身は客のつもりであり、駿河の国を自分の母国と思う人はなかったが、フランスには国に報いようとする国民が多かったので国の災難をそれぞれの身に引き受け、誰かの命令を待たずに自ら母国のために戦う人がいたから、このような相違が生まれるのである。これを根拠に考えれば、外国から母国を守るに当たって、その国民に独立の気力がある場合は国への思いも深く、独立の気力がない場合は思いも浅い事が推察できる。
第二条 国内で独立できない人は、海外で外国人に接するときも独立の権利を主張できない。
独立の気力がない人は必ず他人に依存し、他人に依存する人は必ず他人を恐れ、他人を恐れる人は必ず他人にへつらうものである。常に他人を恐れ他人にへつらう人はだんだんこれに慣れ、その顔の皮が鉄のように硬くなって、恥ずかしい事も恥じず、言うべき事も言わず、他人を見ればただ腰を屈するだけ。いわゆる「習慣が性格になる」とはこの事であり、慣れたことは簡単に直しがたいものである。
たとえば今、日本にて平民に名字を名乗る事と乗馬を許し、裁判の方法も改まって、表向きはまず士族と平等のようだが、その習慣はにわかには変わらず、平民の根性は依然として元の平民のままであり、言葉遣いも卑しくやりとりも卑しく、目上の人に会えば一言も理屈を言えず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その柔順さは家に飼っている痩せ犬のようだ。実に無気力の鉄面皮と言うべきだ。
昔、鎖国の時代に旧幕府のように窮屈な政治をおこなう時代があり、国民の無気力さはその政治に差支えがないばかりか、かえって便利だったから、さらにこれを無知に陥れ無理に柔順にさせることを役人の手柄とさせていたけれども、今、外国と交わる日が来たからにはこれが大きな弊害となっている。
たとえば田舎の商人などが、ビクビクしながら外国の貿易をしようと横浜などへ来ると、まず外国人の体格のたくましさを見て驚き、金の多さを見て驚き、店舗の巨大さに驚き、蒸気船の速さに驚き、既に胆を抜かしてしまっているから、やがてこの外国人に近付いて取引をする段階では、その駆け引きのするどさに驚き、もし無理な理屈を吹っかけられればただ驚くだけでなく、その圧力に震え怖がって、無理と知りながら大きな損失を受け大きな恥辱を受ける事がある。
これは一人の損失ではない。一国の損失である。一人の恥辱ではなく、一国の恥辱である。実に馬鹿らしいようだが、先祖代々から独立の気力がない町人根性、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、安月給の足軽に会っても「御旦那様」とあがめる魂は腹の底まで腐っていて、一朝一夕で洗えるものではなく、こういった臆病神の手下たちが、あの大胆不敵な外国人に会って、胆を抜かすのは無理もない事である。これはつまり、国内で独立できない人は、海外でも独立できないという証拠である。
第三条 独立の気力がない人は、他人に依存して悪さを働く事がある。
旧幕府の時代に名目金として、御三家などと名乗る権威の強い大名の名目を借りて金を貸し、ずいぶんと無茶な取引がされていた事があった。そのおこないは非常に憎むべき事だ。自分の金を貸して返さない人がいれば、何度でも力を尽して法律に訴えるべきだ。だからこの法律を恐れて訴えずに、卑怯にも他人の名目を借り他人の暴威に頼って返金を促すとは卑怯な行動ではないか。今日では名目金の事件は聞かないけれども、ひょっとしたら世間に外国人の名目を借りる人がいるのではないか。私は未だにその確証を得ていないから、明らかにここで論じることはできないが、昔の事を思えば今の世の中にも疑いの余地がある。
この後、万が一外国人と雑居する場合があり、その名目を借りて卑劣な手を使う人が現れたら、国の災いとなるのは言うまでもない。だから国民に独立の気力がないのは、その取り扱いが便利などと言って油断してはいけない。災いは思わぬところで起こるものである。国民に独立の気力がいよいよ少なくなれば、国を売るという災いもそれにつれてますます大きくなるだろう。つまり、この条の冒頭で言った、他人に依存して悪事を働くというのはこの事である。
これら三箇条で言うところはすべて、国民に独立の心がない事から生ずる災害である。今の世に生まれて国を愛する気持ちのある人は、公務員・一般人を問わずまず自己を独立させ、余力があれば他人の独立を助けなさい。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守ろうではないか。まとめれば、他人を束縛して1人で心配をするより、他人を解放して苦楽を共にするのが一番である。
「人」と呼ばれる限りは、金持ちも貧乏も、強い人も弱い人も、人民も政府も、その権利は変わらないという事は第二編に書いた。今この意味を広めて国と国との関係を語ろう。国とは人の集ったもので、日本は日本人の集ったものであり、イギリスはイギリス人の集ったものである。
日本人もイギリス人も等しく天地の間の人だから、お互いにその権利を妨げる理由はない。一人が一人に向かって危害を加える理由がないなら、二人が二人に向かって危害を加える理由もないだろう。百万人も千万人も同様で、物事の道理は人数の多少によって変わってはならない。
今、世界中を見渡すと、文明開化と言って文学も軍備も盛んで富強な国もあり、発展途上で文武ともに行き届かず貧弱な国もある。一般にヨーロッパ、アメリカの諸国は富んで強く、アジア、アフリカの諸国は貧しくて弱い。しかしこの貧富と強弱は国の有様だから、もとから同じである訳がない。だから今、自国の富強な勢いで貧弱な国へ無茶な要求をするのは、いわゆる力士が腕力にまかせて病人の腕を握り折るのと同じで、国の権利において許してはならない事である。
最近の日本も西洋諸国の富強に及ばないところがあるが、一国の権利においては毛ほどの違いもない。道理を無視して曲がったことを強いられることがあれば、世界中を敵に回しても恐れるに足りない。初編でも言った通り、日本中の国民が一人残らず命を棄てて国の誇りを守るというのはこの場合である。
それだけでなく貧富や強弱の様子は宿命ではなく、日々の勉強と不勉強とによって移り変わるべきもので、今日の愚か者も明日は知恵者となるように、過去の富強も現在の貧弱となり得る。昔からその例は少なくない。私たち日本も今から学問に励み、気力をみなぎらせてまずは一身を独立させ、その後に一国の富強を成し遂げれば、西洋人の力なんて恐れることはない。道理を持つものとは交わり、道理を持たないものは打ち払うだけだ。一身を独立して一国も独立するというのはこの事である。
一身を独立して一国も独立する事
先に述べた通り、国と国とは同等だが、国民に独立の気力がないときは国も独立の権利が得られない。その理由は3つある。
第一条 独立の気力がない人は、国への思いが深くない。
独立とは自分で自分の身を支配し、他に依存する心がない事を言う。自ら物事の良し悪しを判別して行動を間違えない人は、他人の知恵に依存しない独立である。自らの心身を働かせて個人の生計を立てる人は、他人のお金に依存しない独立である。人々がこの独立の心を持たずただ他人の力に頼ろうとだけすれば、全国の人はみんな依存する人だけなので、これを引き受ける人はいないだろう。これはたとえば盲目の人々の行列に誘導する人がいないのと一緒で、かなり不都合である。
ある人がこう言っている。民衆は服従させるものだから真実を知らせてはならない、世の中は無能な人が千人で有能な人が千人であれば、有能な人が上に立って諸民を支配し自分たちに服従させて良いと。この説は孔子の流儀だが、実際は大いに間違っている。一国に人を支配するほどの才徳を備えた人は千人の中で一人に過ぎない。
仮に人口百万人の国があるとして、この内の千人は有能で九十九万あまりの人は無能の人々だとしよう。有能な人の才能と人徳でこの人々を支配し、あるときは我が子のように愛し、あるときは羊のように養い、あるときは脅しあるときはなでて、飴も鞭も使い分けてその方向性を示すことがあれば、人々は知らず知らずのうちに上の命令に従い、盗賊や殺人の事件もなく、国は平和に治まることがあるかもしれないが、もとからこの国の人々は主人と客の2つに分かれ、主人は千人の有能な人たちで都合の良いように国を支配し、その他の人々はみんな何も知らない客である。
客という身であればもとから心配も少なく、ただ主人にだけ依りすがっていれば責任がないから、国を思う事も主人のようにならないのは当然で、本当に水くさい有様である。国内の事ならこれで良いかもしれないが、外国と戦争が起こった場合の不都合さを考えてみなさい。無知で無力の人々は、武器を構えることはあっても、自分たちは客だから命を棄てるのはやり過ぎだと言って逃げる人が多いだろう。こうなるとこの国の人口は、見た目は百万人だが、国を守る段階になるとその人数はとにかく少なく、とても一国の独立は叶い難いだろう。
こういった訳で、外国から自分の国を守るには、自由独立の気風を全国に充満させて、国中の人々は身分上下の差別なく、その国を自分の責任として引き受け、有能者も無能者も目の見えない人も目の見える人も、それぞれその国に存在する人間としての役割を果たすべきだ。イギリス人はイギリスをもって自分の母国と思い、日本人は日本をもって自分の母国と思い、その母国の土地は他人の土地ではなく自分たちの土地だから、母国への思いは我が家への思いと同じにし、国のためには財産を失うだけでなく、命をも投げ出して惜しむ事はない。これが母国の恩に報いる道義である。
もとから国の政治をおこなうのは政府で、その支配を受けるのが国民だが、これはただ便利のためにお互いの持ち場を分けただけである。国全体の誇りにかかわることであれば、国民の役割として政府だけに国を預け、傍らからこれを見物する訳にはいかないだろう。日本の誰、イギリスの誰と、名前の肩書きに国の名前があれば、その国で衣食住を自由にできる権利がある。既にその権利があるのだから、その役割を国民が持たないはずがない。
戦国時代、駿河の今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとしたとき、信長の策で桶狭間に伏兵を設置し今川の本陣に迫って義元の首を取ると、駿河の軍勢は蜘蛛の子を散らすように戦いもしないで逃げ走り、当時名高かった駿河の今川政府も一瞬で亡びて跡形もなくなった。3年ほど前、フランスとプロイセン(現ドイツ)との戦争で、両国が接近戦を展開した当初、フランス皇帝ナポレオンはプロイセンに生け捕られたが、フランス人はこれで望みを失わなかっただけでなく、さらに憤発して防ぎ戦い、骨をさらし血を流し、数ヶ月籠城した後で和睦に及んだが、フランスは依然として元のフランスと変わらなかった。
あの今川のてん末に比べれば同じ事としては語れない。その理由は何だろうか。駿河の人民はただ義元一人に頼りっぱなしで、その身は客のつもりであり、駿河の国を自分の母国と思う人はなかったが、フランスには国に報いようとする国民が多かったので国の災難をそれぞれの身に引き受け、誰かの命令を待たずに自ら母国のために戦う人がいたから、このような相違が生まれるのである。これを根拠に考えれば、外国から母国を守るに当たって、その国民に独立の気力がある場合は国への思いも深く、独立の気力がない場合は思いも浅い事が推察できる。
第二条 国内で独立できない人は、海外で外国人に接するときも独立の権利を主張できない。
独立の気力がない人は必ず他人に依存し、他人に依存する人は必ず他人を恐れ、他人を恐れる人は必ず他人にへつらうものである。常に他人を恐れ他人にへつらう人はだんだんこれに慣れ、その顔の皮が鉄のように硬くなって、恥ずかしい事も恥じず、言うべき事も言わず、他人を見ればただ腰を屈するだけ。いわゆる「習慣が性格になる」とはこの事であり、慣れたことは簡単に直しがたいものである。
たとえば今、日本にて平民に名字を名乗る事と乗馬を許し、裁判の方法も改まって、表向きはまず士族と平等のようだが、その習慣はにわかには変わらず、平民の根性は依然として元の平民のままであり、言葉遣いも卑しくやりとりも卑しく、目上の人に会えば一言も理屈を言えず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その柔順さは家に飼っている痩せ犬のようだ。実に無気力の鉄面皮と言うべきだ。
昔、鎖国の時代に旧幕府のように窮屈な政治をおこなう時代があり、国民の無気力さはその政治に差支えがないばかりか、かえって便利だったから、さらにこれを無知に陥れ無理に柔順にさせることを役人の手柄とさせていたけれども、今、外国と交わる日が来たからにはこれが大きな弊害となっている。
たとえば田舎の商人などが、ビクビクしながら外国の貿易をしようと横浜などへ来ると、まず外国人の体格のたくましさを見て驚き、金の多さを見て驚き、店舗の巨大さに驚き、蒸気船の速さに驚き、既に胆を抜かしてしまっているから、やがてこの外国人に近付いて取引をする段階では、その駆け引きのするどさに驚き、もし無理な理屈を吹っかけられればただ驚くだけでなく、その圧力に震え怖がって、無理と知りながら大きな損失を受け大きな恥辱を受ける事がある。
これは一人の損失ではない。一国の損失である。一人の恥辱ではなく、一国の恥辱である。実に馬鹿らしいようだが、先祖代々から独立の気力がない町人根性、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、安月給の足軽に会っても「御旦那様」とあがめる魂は腹の底まで腐っていて、一朝一夕で洗えるものではなく、こういった臆病神の手下たちが、あの大胆不敵な外国人に会って、胆を抜かすのは無理もない事である。これはつまり、国内で独立できない人は、海外でも独立できないという証拠である。
第三条 独立の気力がない人は、他人に依存して悪さを働く事がある。
旧幕府の時代に名目金として、御三家などと名乗る権威の強い大名の名目を借りて金を貸し、ずいぶんと無茶な取引がされていた事があった。そのおこないは非常に憎むべき事だ。自分の金を貸して返さない人がいれば、何度でも力を尽して法律に訴えるべきだ。だからこの法律を恐れて訴えずに、卑怯にも他人の名目を借り他人の暴威に頼って返金を促すとは卑怯な行動ではないか。今日では名目金の事件は聞かないけれども、ひょっとしたら世間に外国人の名目を借りる人がいるのではないか。私は未だにその確証を得ていないから、明らかにここで論じることはできないが、昔の事を思えば今の世の中にも疑いの余地がある。
この後、万が一外国人と雑居する場合があり、その名目を借りて卑劣な手を使う人が現れたら、国の災いとなるのは言うまでもない。だから国民に独立の気力がないのは、その取り扱いが便利などと言って油断してはいけない。災いは思わぬところで起こるものである。国民に独立の気力がいよいよ少なくなれば、国を売るという災いもそれにつれてますます大きくなるだろう。つまり、この条の冒頭で言った、他人に依存して悪事を働くというのはこの事である。
これら三箇条で言うところはすべて、国民に独立の心がない事から生ずる災害である。今の世に生まれて国を愛する気持ちのある人は、公務員・一般人を問わずまず自己を独立させ、余力があれば他人の独立を助けなさい。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守ろうではないか。まとめれば、他人を束縛して1人で心配をするより、他人を解放して苦楽を共にするのが一番である。