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学問のすすめ「初編」
福沢諭吉の著書『学問のすすめ』。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という冒頭と、
本の名前は知っているけど、内容は知らない。「勉強しなさい」
的な、生真面目でかた苦しい本だろう。というイメージしかない。

しかしボクが思うに、名著と呼ばれるものには必ず理由がありま
す。それを社会の時間に教科書でタイトルを知っただけで分かっ
たつもりになるのはどうなのか?

読んでみる気になったのはその程度の動機からです。ところが、
これがおそろしくおもしろい。中学、高校のときにきちんと読ん
でいたら、人生が変わっていたかもしれない。

これは読むべきだ。人にすすめたい。しかし、文体が古めかしく
今の人には読みづらい。

そこで著作権も消滅していることだし、僭越ながらボクが読みや
すく訳して全17編を紹介していこうと思い立ちました。今回は最
も有名な「初編」です。

中には著しく他人をバカにしたり差別したりしている表現もあり
ますが、原文の雰囲気を保つためにあえて残してあります。また、
明治維新から間もないという時代背景を考慮すると読みやすくな
ります。
 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言われている。ならば天から生まれた人間はすべて同じ身分であり、生まれもった身分に上下の差別はなく、万物の霊である身と心との働きで世界にあるすべての物を取り、それを駆使して衣食住を満たし、自由に、お互いに他人の邪魔をしないで、それぞれが安心してこの世を生きていくものだという意味である。ところが今、広くこの人間世界を見渡すと、賢い人がいて、愚かな人がいて、貧しい人がいて、裕福な人がいて、貴族もいて、身分の低い人もいて、その有様に雲と泥ほどの違いがあるように見えるのはどうしてだろう。その理由はかなり明白だ。「実語教」に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とある。ならば賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによって生まれるのである。また、世の中には難しい仕事もあり、簡単な仕事もある。その難しい仕事をする人を身分の高い人と言い、簡単な仕事をする人を身分の軽い人と言う。すべて頭を使い配慮が必要な仕事は難しくて、手足を使う力仕事は簡単である。だから、医者、学者、政府の役人、または大きな商売をする町人、多くの奉公人を抱える大百姓などは、身分が高くて尊い人なのである。

 身分が高くて尊ければ自然とその家も裕福になって、下々の人から見れば手が届かないように思えるけれども、きっかけを調べればただその人に学問の力があるかないかによってその違いができているだけで、生まれもった運命ではない。ことわざに言う、「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」と。ならば前にも述べた通り、人は生まれながら身分の上下、貧富の差があるのではない。ただ学問に励んで物事をよく知る人は偉くなり裕福になり、無学な人は貧しくなり召使いとなるのだ。

 学問とは、ただ難しい字を知り、読みづらい古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世のために役立たない文学を指すのではない。これらの文学も自然と人の心を喜ばせるからずいぶん便利だが、昔から世間の儒者(道徳家)や日本の歴史研究家などが言うほどありがたく尊いものではない。昔から中国の歴史研究家に生活のやりくりが上手な人は少なく、和歌が得意で商売もうまい町人も稀だ。だから思慮のある町人百姓は、自分の子が学問に励むのを見て、やがて身を滅ぼすのではと親心に心配する人もいる。無理もない。つまり、その学問の実りは遠すぎて、日常に使えない証拠である。

 ならば今挙げたような実りない学問は後回しにして、もっぱら励むべきは人間の日常に近い実学である。例えば、ひらがなを習い、手紙の文体、帳簿の付け方、そろばんの稽古、天秤の扱い方などを覚え、さらに進んで学ぶべき項目はかなり多い。地理学とは日本はもちろん世界中の風土・地図である。物理学とは天地すべての性質を見てその働きを知る学問である。歴史とは年代記の詳しいもので各国の昔と今の様子を探求する書物である。経済学とは我が家の会計から天下の会計を説くものである。修身学とは身の行いを修め人と交わり、この世を渡る自然の道理を述べたものである。

 これらの学問をするなら、いずれも西洋の翻訳書を調べ、たいていの事は日本のかなを使って済ませる。もしくは幼くても文才のある人には横文字も読ませ、一科一学ごとに実務を押え、その現場で働きその物に従い、それから物事の道理を求めて現実の用件を達成すべきである。これは人間の普通の実学であり、人はすべて身分の上下の区別なく、全員が等しくおこなうべき心得だから、この心得を駆使して士農工商それぞれその役割を果たしてそれぞれの家業を営み、身も独立し家も独立し国家も独立すべきである。

 学問するには分限を知ることが大切である。人は生まれつき、つながれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女であり、自由であるけれども、ただ自由とだけ言って分限を知らなければわがままな自堕落に陥ることが多い。すなわちその分限とは、天の道理に基づいて人の心情に従い、他人の邪魔をしないで自分ひとりの自由を達成することである。自由とわがままとの境界は、他人の邪魔をするかしないかである。例えば自分の財産を使ってすることならば、たとえ酒に溺れて堕落するのも自由のように思えるけれども、決してそうではなく、一人の堕落は大勢の手本となって最終的に世間の風俗まで乱して他人の教育を妨げるので、浪費する財産は個人のものであってもその罪は許してはいけない。

 また自由独立の事がらは、一個人だけでなく一国の上にも通じる。日本はアジアの東に離れた一個の島国で、昔から外国と交わりを結ばず孤立して自国の産物だけを衣食して不足することもなかったが、嘉永年中にアメリカ人が渡来してから外国交易が始まり現状に及ぶに至って、開港の後もいろいろと議論が多く、鎖国攘夷(鎖国をして外国人を倒す)などとやかましく言う人もいるけれども、その人の所見は相当に狭く、ことわざに言う井の底の蛙で、その議論は取るに足りない。日本も西洋諸国も同じ天地の間にあって、同じ太陽に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、同じ情けを持つ人間なので、自分に余っているものは相手に渡し、相手が余っているものは自分が受け取り、お互いに教え合いお互いに学び合い、恥じることもなく誇ることもなく、お互いに便利を達成しお互いに幸せを祈り、天の理と人の道に従ってお互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの奴隷にも恐縮し、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦さえも恐れず、国が恥辱を受けたならば日本中の人が一人も残らず命を棄てて国の威光を守ることこそ、一国の自由独立というものだ。

 それを中国人などのように、自国より他に国が存在しないかのように、外国の人を見ればひと口に野蛮人と言い、四本足で歩く獣のようにこれを卑しめこれを嫌い、自国の力も計らないでやみくもに外国人を追い払おうとし、かえってその野蛮人に苦しめられるという始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上で言えば崇高な自由を達成せずにわがままで自堕落に陥る者と言える。王制が一新されて以来、日本の政治は大いに改まり、外は世界の公法を用いて外国と交わり、内は国民に自由独立の趣旨を示し、平民にも苗字を名乗り乗馬することを許したことは創世以来の一大美事で、士農工商四民の身分を等しくする礎がここに定まったと言うものだ。

 ならば今後は日本中の国民に、生まれながらその身に定められた身分などというものはなくなり、ただその人の才能と居場所とによって地位が決まるのである。例えば政府の公務員を粗末に扱わないのは当然の事だが、これはその人の身分が高いからではなく、その人の才能で役目を勤め、国民のために尊い国法を取り扱うから尊ぶだけである。人が尊いのではなく、国法が尊いのである。旧幕府の時代、東海道を御茶壷が通行したのは、誰もが知っている。その他、御用の鷹は人よりも尊く、御用の馬には往来の旅人も道を譲る等、すべて御用の二字を付ければ石でも瓦でも恐ろしく尊い物のように見え、世の中の人も数千百年の昔からこれを嫌いながらも自然にそのしきたりに慣れ、身分の上でも下でもお互いに見苦しい風俗を作ったけれども、結局これらはすべて法の尊さでもなく、品物の尊さでもなく、ただ無駄に政府の威光を張って人を脅して人の自由を阻害しようとする卑怯なやり方であり、中身がなく虚しい威光というものである。今ではもう全国にこういった浅ましい制度や風俗は絶えてないはずだから、人々は安心し、仮に政府に対して不平を抱くことがあれば、これを包み隠して陰で恨むことなく、その手段を求めその筋を根拠に、静かにこれを訴えて遠慮なく議論しなさい。天の理と人の情に叶う事ならば、命がけで争いなさい。これはつまり国民の分限というものである。

 今述べた通り、人の身ひとつも国ひとつも、天の道理に基づいて束縛のない自由なものだから、もしこの国の自由を邪魔しようとする存在があれば世界中を敵に回しても恐れることはなく、この身の自由を邪魔しようとする人がいれば政府の役人でも遠慮することはない。まして最近は四民同等の基礎も成立したこともあるので、とにかく安心し、ただ天の理に従って存分に事業をおこなうべきとは言いながら、ほとんどの人にはそれぞれの身分があったので、その身分に相応の才能しかないだろう。身に才能を備えるには物事の理を知らなければならない。物事の理を知るには字を学ばなければならない。つまり学問が早急に必要な訳である。

 昨今の様子を見ると、農工商の三民はその身分が以前の百倍増しになり、やがて士族と肩を並べる勢いに至り、今日すぐにでも三民の中に有能な人物がいれば政府の役人に採用される道がすでに開けたとなれば、(士族は)よくその身分を考慮し、自分の身分を高いものと思い、卑劣な行いをしてはならない。また世の中に物を知らず字も読めない人ほど憐れで、悪いものはない。知恵のなさが極端な場合は恥を知らないほどで、自分の無知のせいで貧乏になり飢えと寒さに震えるときは、自分の身を棚に上げてむやみに近くの裕福な人を恨み、ひどい場合は集団化して一揆などという乱暴に及ぶことがある。恥を知れと言いたい、法を恐れよと言いたい。天下の法律を頼りにその身の安全を保ち家庭のやりくりをしながら、法の頼れるところだけ頼って、自分の私欲のためにはこれを破る、前後が矛盾しているではないか。あるいはたまたま身分が高く相応の財産があっても、金銭を貯めることを知って子孫を教育することを知らない場合。教養のない子孫ならばその愚かさもまた想像できる。最後は遊び暮れて堕落し、先祖の財産を一瞬で使い果たす人間になるだろう。

 このように愚かな国民を支配するには、とても道理で制御する方法がないので、ただ威圧して脅すだけだ。西洋のことわざで「愚民の上に過酷な政府あり」とはこの事である。 これは政府の残酷さではなく、愚かな国民が自ら招く災いである。愚かな国民の上に過酷な政府があるなら、良い国民の上には良い政府があるという理屈である。だから今、日本においてもこの国民があるからこの政府があるのだ。仮に国民の徳義が今日よりも衰えて、さらに無学で字も読めないほどに沈むことがあれば、政府の法律も今よりいっそう厳重になるし、もし国民がすべて学問に志して物事の理屈を知り文明の風に赴くならば、政府の法律もいっそう寛大になるだろう。法の過酷さと寛大さとは、ただ国民の徳・不徳によって自ら加減されるだけだ。誰が過酷な政府を好んで寛大な政府を嫌うだろう。誰が自国の富強を祈らないだろう。誰が外国の侮辱を甘んじて受けたがるだろう。これはすなわち人間の常識である。今の世に生まれて国に報いたいと思う心のある人は、必ずしも身を苦しめて思いを焦がすほど心配するものではない。ただその大切な目標は、この常識に基づいてまず自分の行いを正しくし、しっかりと学問を志し広く事物を知り、それぞれの身分に相応する知識と道徳を備えて、政府はその政治を施行しやすく国民はその支配を受けて苦しまないよう、お互いにその拠り所を押さえて共に全国の平和を守ろうとするだけである。今、私の勧める学問も主にこのことをもって趣旨としている。
| 学問のすすめ | 16:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
コメント
はじめまして!学問のススメに興味があり、学校の図書館で少し読んだのですが文体が読みづらく、意味が分からないところもあり読むのに苦労していたので・・・現代語訳本当に助かりました^^私も学生の間にこの本に巡り合えて本当によかったと思います。学校の友達にも勧めてみますね!
| KABO | 2010/10/01 1:24 AM |
KABOさん

コメントありがとうございます!
共感してくれる方がいて、素直にうれしいですね。

途中で止まってるから、続きも書かなきゃな…。


| やちき | 2010/10/01 10:40 AM |
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